06.12
上方落語の巨星、桂ざこばさん逝去 – その生涯と功績を振り返る
2024年6月12日、上方落語を代表する落語家であり、テレビやラジオでも幅広く活躍した桂ざこばさんが、76歳で逝去されました。桂ざこばさんは、1963年に三代目桂米朝さんに入門し、威勢のいい若手落語家として注目を集めました。1988年には二代目桂ざこばを襲名し、上方落語の普及に尽力しました。彼の死因は喘息であり、大阪府吹田市の自宅で息を引き取りました。桂ざこばさんは、寄席小屋「動楽亭」を開設し、上方落語の振興に大きく貢献しました。また、数々の賞を受賞し、その中には芸術選奨文部科学大臣賞も含まれています。彼の死は、落語界にとって大きな損失であり、多くのファンや関係者が深い悲しみに包まれています。この記事では、桂ざこばさんの生涯と功績を振り返り、その偉大な足跡をたどります。
1. 桂ざこばさんの生涯
1.1 幼少期と家族背景
桂ざこばさん、本名関口弘(せきぐち ひろむ)さんは、1947年9月21日に大阪市西成区で生まれました。幼少期に両親が離婚し、父親に引き取られましたが、まもなく父親と死別し、母親と姉との3人暮らしとなりました。父親は大阪府警察の元職員で、離婚後は二人で旅館暮らしをしていましたが、ある日失踪し、鉄道自殺を遂げました。このような波乱に満ちた幼少期を過ごしたざこばさんは、母の実家の姓である「関口」を名乗ることになりました[1][3]。
1.2 落語家としてのスタート
ざこばさんは、日本橋中学校在学中に様々なアルバイトをして家計を助けていましたが、その結果、次第に登校しなくなりました。学校をさぼって千日劇場に行った際、三代目桂米朝さんの「浮世床」を見て即座に弟子入りを志願しました。当初、米朝さんは「学校をサボるような子は噺家にはなれん」と突き放しましたが、何日も通い詰めた結果、1963年に入門が許されました[1][3]。
1.3 三代目桂米朝との出会い
三代目桂米朝さんとの出会いは、ざこばさんの人生を大きく変えました。米朝さんの元で内弟子として修行を積み、落語家としての基礎を築きました。米朝さんの長男である桂米團治さんも、ざこばさんのことを「お兄さん」として慕い、彼の教えを受け継いでいます[3][6]。
2. 二代目桂ざこば襲名
2.1 襲名の経緯
1988年、ざこばさんは二代目桂ざこばを襲名しました。これは、師匠である三代目桂米朝さんの強い推薦によるものでした。襲名後は、上方落語界での地位を確立し、多くのファンに愛される存在となりました[1][3]。
2.2 上方落語界での活躍
ざこばさんは、上方落語の普及に尽力し、多くの若手落語家を育成しました。彼の得意とする噺には「子は鎹」「らくだ」「お玉牛」などがあり、その人情味あふれる語り口は多くの人々に感動を与えました[1][3]。
2.3 テレビやラジオでの活動
ざこばさんは、テレビやラジオでも幅広く活躍しました。特に「そこまで言って委員会NP」や「探偵!ナイトスクープ」などの番組での歯に衣着せぬ発言が支持され、多くの視聴者に親しまれました[1][3]。
3. 動楽亭の設立と上方落語の普及
3.1 動楽亭の開設
2008年、ざこばさんは大阪市西成区に寄席小屋「動楽亭」を開設しました。これは、上方落語の普及と若手落語家の育成を目的としたもので、ざこばさん自身が席亭を務めました[1][3]。
3.2 上方落語の振興活動
動楽亭の開設により、ざこばさんは上方落語の振興に大きく貢献しました。若手落語家が鍛錬できる場を提供し、上方落語の未来を担う人材を育成しました[1][3]。
3.3 若手落語家の育成
ざこばさんは、多くの若手落語家を育成し、その中には四代目桂塩鯛や桂りょうばなどがいます。彼らは、ざこばさんの教えを受け継ぎ、上方落語界で活躍しています[1][3]。
4. 受賞歴と栄誉
4.1 上方お笑い大賞
ざこばさんは、1985年に「上方お笑い大賞」の金賞を受賞し、1992年と2003年には大賞を受賞しました。これらの受賞は、彼の落語家としての実力と人気を証明するものでした[1][3]。
4.2 芸術選奨文部科学大臣賞
2017年には、ざこばさんは「芸術選奨文部科学大臣賞」を受賞しました。これは、彼の長年にわたる上方落語への貢献が評価されたものです[1][3]。
4.3 その他の受賞歴
ざこばさんは、その他にも多くの賞を受賞しており、その中には「上方お笑い大賞」や「芸術選奨文部科学大臣賞」などが含まれています[1][3]。
5. 最後の高座と晩年
5.1 脳梗塞からの復帰
2017年、ざこばさんは脳梗塞で入院しましたが、2か月後には舞台に復帰しました。その後も精力的に活動を続け、2021年にはせきや息切れの症状で一時休演しましたが、再び高座に上がりました[1][3]。
5.2 最後の高座
2024年2月、兵庫県宝塚市内で開かれた寄席が、ざこばさんの最後の高座となりました。彼の最後の高座は、多くのファンに感動を与えました[1][3]。
5.3 逝去とその影響
2024年6月12日、ざこばさんは喘息のため大阪府吹田市の自宅で逝去しました。彼の死は、落語界にとって大きな損失であり、多くのファンや関係者が深い悲しみに包まれました[1][3]。
6. 桂ざこばさんの遺産
6.1 落語界への影響
ざこばさんの死は、落語界に大きな影響を与えました。彼の教えを受け継いだ多くの弟子たちが、彼の遺志を継いで上方落語を発展させていくことでしょう[1][3]。
6.2 ファンや関係者からの追悼
多くのファンや関係者が、ざこばさんの死を悼み、彼の功績を称えました。彼の人情味あふれる語り口と歯に衣着せぬ発言は、多くの人々に愛されました[1][3]。
6.3 未来への影響
ざこばさんの遺産は、未来の落語界に大きな影響を与えることでしょう。彼の教えを受け継いだ弟子たちが、上方落語をさらに発展させていくことが期待されます[1][3]。
桂ざこばさんの生涯と功績を振り返り、その偉大な足跡をたどることで、彼の遺産がどれほど大きなものであったかを再認識することができます。彼の死は大きな損失ですが、その精神と業績は永遠に語り継がれることでしょう。
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