やなせたかしと三越包装紙「華ひらく」の知られざる物語

やなせたかしと三越包装紙「華ひらく」の知られざる物語

戦後日本を代表する漫画家・絵本作家であり、国民的人気キャラクター「アンパンマン」の生みの親として知られるやなせたかし。しかし、彼が漫画家として独立する前に三越百貨店の宣伝部に勤務し、日本の商業デザイン史に残る名作「華ひらく」包装紙の制作に関わっていたことは、意外と知られていない事実です。今も三越で使われている赤い包装紙のデザインには、若き日のやなせたかしの才能が息づいています。

三越包装紙「華ひらく」

出典:三越伊勢丹(公式サイト

やなせたかし、三越に入社するまで

やなせたかしは1919年(大正8年)に東京で生まれましたが、5歳のときに父親を亡くし、高知県で育ちました。千葉大学の前身である東京高等工芸学校工芸図案科を卒業後、田辺製薬(現在の田辺三菱製薬)の宣伝部に就職しました。しかし、戦争の影響で徴兵され、中国大陸に派遣されます。

戦後、やなせは高知新聞社に入社しますが、同僚だった小松暢(のぶ)が上京することになり、彼もそれに続きます。1947年(昭和22年)、やなせは上京して小松と結婚。この時期、やなせは漫画家を志していましたが、生活の安定を求めて三越百貨店の宣伝部に入社することになりました。

三越包装紙とやなせたかし

出典:プレジデントオンライン(記事リンク

三越宣伝部での活動

三越宣伝部に入社したやなせは、グラフィックデザイナーとして活躍します。彼は三越の社内報の編集や制作を担当するとともに、広告物のデザイン等も手がけていました。当時の三越は戦後復興期にあり、百貨店文化を再興する重要な時期でした。

やなせは三越で働きながらも漫画を描き続け、新聞や雑誌に作品を発表する「兼業漫画家」として活動していました。彼の言葉を借りれば「とにかく貧乏は嫌だった」ため、安定した職を持ちながら、漫画家への道を模索していたのです。

「華ひらく」包装紙の誕生

三越の包装紙「華ひらく」が誕生したのは1950年(昭和25年)のこと。元々はクリスマスプレゼント用としてデザインされたものでしたが、好評だったため翌年から三越全店で常時使用されるようになりました。

この包装紙のデザインを手がけたのは、画家の猪熊弦一郎でした。猪熊は千葉の犬吠埼を散策中に見つけた、波に洗われた石からインスピレーションを得て、「波にも負けずに頑固で強く」「自然の作る造形の美しさ」をテーマにしたデザインを考案しました。

猪熊弦一郎による三越包装紙「華ひらく」型紙

出典:三越伊勢丹 猪熊弦一郎 三越包装紙「華ひらく」型紙(1950年)(公式サイト

やなせたかしの貢献

このデザインに最終的な仕上げを加えたのが、当時三越宣伝部に勤めていたやなせたかしでした。彼は猪熊のデザインに「mitsukoshi」の筆記体のレタリングを加えて、包装紙のデザインを完成させました。

やなせは後に、この包装紙について「シンプルなデザインに最初は面食らったものの、試しに箱を包んでみると、箱の持つ直線の強さと、包装紙に描かれた曲線の柔らかさが、お互いを引き立て合う奥深いデザインだと驚いた」と語っています。

この「華ひらく」と名付けられた包装紙は、その名前のとおり商品を包むと花が開いたように雰囲気を華やかにする効果があり、今日まで70年以上にわたって使用され続けている三越のシンボルとなっています。

三越包装紙「華ひらく」クリスマスバージョン

出典:三越伊勢丹 三越包装紙「華ひらく」クリスマス(公式サイト

漫画家への道

1953年(昭和28年)3月、やなせたかしは三越を退社し、専業漫画家への道を歩み始めます。漫画で得る収入が三越の給料を三倍ほど上回ったことが独立の決め手となりました。その後、彼は漫画家、絵本作家、詩人として多くの作品を世に送り出し、特に1973年に生まれた「アンパンマン」は、世代を超えて愛される国民的キャラクターとなりました。

しかし、やなせが三越宣伝部時代に関わった「華ひらく」包装紙は、彼が漫画家として名を成した後も、三越のシンボルとして使い続けられています。この包装紙は時代と共に変化する価値観を超えてスタンダードであり続ける力を持つデザインとして、2019年度に「グッドデザイン・ロングライフデザイン賞」を受賞するなど、その価値は今も高く評価されています。

日本橋三越本店ウインドーディスプレイ

出典:三越伊勢丹 日本橋三越本店ウインドーディスプレイ(公式サイト

商業デザインとアート

「華ひらく」のデザインは、単なる包装紙を超えて、日本の商業デザイン史に残る重要な作品として認識されています。このデザインには、猪熊弦一郎の芸術性とやなせたかしの実用的なデザインセンスが見事に融合しています。

特筆すべきは、「どのような大きさでも、どの角度から見ても、図案の美しさが変わらない」という画期的なデザイン性です。物を包んで立体になったときの表情の変化も魅力の一つで、それまで茶紙が主流だった百貨店の包装紙の常識を一変させました。

また、使用された鮮やかな朱一色の「スキャパレリレッド」は、戦後という時代背景の中で「これからの時代は包装紙も自分をアピールするような強いものでなければならない」という考えから選ばれたものでした。

やなせたかしの残した遺産

やなせたかしは2013年(平成25年)に94歳で亡くなりましたが、彼が関わった「華ひらく」包装紙は今も多くの人々の手に渡り続けています。商業デザイナーとしてのやなせたかしの才能は、アンパンマンの生みの親としての功績に比べるとあまり知られていませんが、三越包装紙という形で日常の中に生き続けているのです。

やなせたかしは三越退社後、漫画家、絵本作家、詩人、作詞家など多彩な才能を発揮しましたが、彼のキャリアの原点には三越宣伝部でのデザイナーとしての経験があったことを忘れてはなりません。「華ひらく」包装紙は、やなせたかしの多彩な才能の一端を今に伝える貴重な文化遺産と言えるでしょう。

華ひらくのデザイン

出典:中央区観光協会特派員ブログ(記事リンク

まとめ

「アンパンマン」の生みの親として知られるやなせたかしが、若き日に三越宣伝部のグラフィックデザイナーとして勤務し、今も使われている三越の象徴的な包装紙「華ひらく」のデザインに関わっていたという事実は、彼の多彩な才能を物語っています。

画家・猪熊弦一郎の斬新なデザインに、やなせたかしがレタリングで「mitsukoshi」のロゴを加えたこの包装紙は、70年以上の時を経て今なお三越のシンボルとして愛され続けています。やなせたかしはその後、漫画家として大成しましたが、彼の商業デザイナーとしての才能と貢献も、「華ひらく」包装紙という形で私たちの日常に溶け込んでいるのです。

参考文献

[1] 三越伊勢丹グループ, 「三越の包装紙「華ひらく」」, https://cp.mistore.jp/mitsukoshi/hanahiraku.html
[2] やなせたかし – Wikipedia, https://ja.wikipedia.org/wiki/やなせたかし
[3] 「美術館は心の病院」三越の包装紙をデザインした画家・猪熊弦一郎の足跡を辿る, https://artplaza.geidai.ac.jp/column/13654/
[4] 「アンパンマン」やなせたかしの字が今も三越の包装紙に…プロになりたくても決断できなかった兼業漫画家時代, https://president.jp/articles/-/98361
[5] 新宿区ゆかりの人物データベース, 「やなせ たかし(やなせ たかし)」, https://www.library.shinjuku.tokyo.jp/database/jinbutuyukari/080/post250.html
[6] 「華ひらく」に込められた想い 〜やなせたかしと三越包装紙〜, https://tokuhain.chuo-kanko.or.jp/detail.php?id=5989
[7] 三越の包装紙、ミレービスケット、作詞家としても…人生で何度も挫折しながらも「アンパンマン」を生み出した漫画家・やなせたかし, https://futaman.futabanet.jp/articles/-/123661
[8] 包装紙 – グッドデザイン賞, https://www.g-mark.org/gallery/winners/9e20e197-803d-11ed-af7e-0242ac130002

タグ: やなせたかし, アンパンマン, 三越, 包装紙, 華ひらく, 猪熊弦一郎, デザイン, グラフィックデザイン, 商業デザイン, 百貨店, 戦後, 日本文化

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