2025年のノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文氏。その輝かしい功績の陰には、長年研究生活を共にしてきた妻・教子さんとの二人三脚があります。本記事では、20年以上にわたる「冬の時代」を乗り越えて制御性T細胞を発見に至った二人の歩み、そして現在取り組んでいる革新的な治療薬開発について詳しく探ります。免疫学に革命をもたらした彼らの研究がどのように自己免疫疾患やがん治療の新たな可能性を切り開いているのか、その全貌をお伝えします。
ノーベル生理学・医学賞を受賞した坂口志文氏(出典:nippon.com)
運命的な出会いから始まった研究人生
坂口志文氏と妻の教子さんの出会いは、1970年代後半の愛知県がんセンターでした。当時、坂口氏は研究生として、教子さんは名古屋市立大学の医学生として病院実習に来ていました。この偶然の出会いが、後に免疫学の歴史を変える大発見へとつながる長い研究人生の始まりとなったのです。
1979年に結婚した二人は、それぞれの医師としてのキャリアを歩み始めました。皮膚科医になった教子さんは、1983年に坂口氏と一緒に渡米。坂口氏が米国で制御性T細胞(Treg)の研究を続ける傍らで、教子さんも研究員として実験のサポートに献身しました。読売新聞オンライン
「一緒に同じ景色を見てきた一番の理解者であり、同志ですね」と坂口氏が語るように、二人の関係は単なる夫婦を超えた研究パートナーシップでもありました。この絆が、後の困難な時期を乗り越える原動力となったのです。
20年間の「冬の時代」を支えた妻の存在
坂口氏の研究人生において最も困難だったのは、1985年の論文発表から約20年間続いた「冬の時代」でした。当時の免疫学界では、「免疫を抑制する細胞は存在しない」という考えが主流であり、坂口氏の制御性T細胞に関する発見は「10年間は見向きもされなかった」と本人が振り返るほど厳しい状況でした。時事通信
この困難な時期、教子さんは坂口氏の研究を物理的・精神的に支え続けました。米国時代は、手伝ってくれる職員や学生もおらず、実験で使うマウスの世話も夫婦二人で行っていました。中日新聞Web
「研究は苦しいから、性格が明るくないとできない」と語る教子さんは、常に笑顔を絶やさずに研究室の若手に話しかけるムードメーカーとしての役割も果たしていました。この明るい性格が、長い不遇の時代を乗り越える重要な要素となったのです。朝日新聞
制御性T細胞発見の意義と医学への影響
坂口氏が発見した制御性T細胞は、免疫システムが自己の細胞を攻撃するのを防ぐ「ブレーキ役」として機能します。この発見により、免疫学における長年のパラドックスが解明されました。
制御性T細胞の発見は、以下のような革命的な意義を持っています:
自己免疫疾患の理解
関節リウマチ、1型糖尿病、多発性硬化症などの自己免疫疾患において、制御性T細胞の機能不全が関与していることが明らかになりました。これにより、これらの疾患に対する根本的な治療アプローチが可能になったのです。
がん治療への応用
がん細胞の周辺に集まった制御性T細胞が、がんに対する免疫攻撃を抑制していることが判明しました。この発見により、制御性T細胞を標的とした新しいがん免疫療法の開発が進んでいます。
臓器移植医療の進歩
制御性T細胞の働きを強化することで、臓器移植後の拒絶反応を抑制する新たな治療法の開発も期待されています。
制御性T細胞研究の成果発表の様子(出典:TBS NEWS DIG)
現在の挑戦:レグセルでの革新的治療薬開発
坂口夫妻の研究は現在、新たな段階に入っています。彼らが設立した医療応用を目指す新興企業「レグセル(RegCell)」では、制御性T細胞を活用した革新的な治療薬の開発を進めています。
レグセルの事業展開
2016年に設立されたレグセルは、制御性T細胞の発見者である坂口氏の技術をベースに、新たな免疫関連医療の創出を目指すベンチャー企業です。2024年には日本医療研究開発機構(AMED)の「創薬ベンチャーエコシステム強化事業」に採択され、最大約68億円の資金調達を実現しました。日経ビジネス
米国進出による本格的な創薬挑戦
2025年3月には、創薬への投資が活発な米国に拠点を移しました。「新しい挑戦を楽しんでいる」と坂口氏、「青春まっただ中です」と教子さんが語るように、74歳と71歳になった今も、二人は精力的に新たな治療法の開発に取り組んでいます。
制御性T細胞を活用した具体的な治療法開発
坂口氏らが現在取り組んでいる治療薬開発は、制御性T細胞の機能を「増強」または「抑制」することで、様々な疾患に対応する革新的なアプローチです。
がん治療への応用
制御性T細胞を減らすことでがん治療に寄与する薬として、坂口氏が候補の一つに挙げるのが慢性骨髄性白血病の治療薬「イマチニブ」です。2019年の研究で、イマチニブが白血病細胞だけでなく、がん細胞を守る制御性T細胞も攻撃することが明らかになりました。毎日新聞
自己免疫疾患への応用
1型糖尿病の患者に対しては、制御性T細胞の働きを強化することで、インスリンを作る膵臓細胞への自己攻撃を抑制する治療法が研究されています。実際に、米国国立衛生研究所(NIH)では関連する臨床研究が進行中です。
モガムリズマブの活用
成人T細胞白血病(ATL)の治療薬「モガムリズマブ」についても、がん周辺の制御性T細胞を取り除く効果があることが確認されており、坂口氏はこの薬でがん周辺の制御性T細胞を除去した上で、がん免疫療法を組み合わせる新しい治療戦略を提案しています。
世界に広がる制御性T細胞研究の波及効果
坂口氏の発見は、世界中の研究者による制御性T細胞研究の活性化をもたらしました。現在、世界では200件を超える臨床試験が実施されており、製薬各社が治療薬の開発に積極的に取り組んでいます。日本経済新聞
中外製薬との共同研究
中外製薬は2016年、坂口氏が所属する大阪大学免疫学フロンティア研究センターと10年間の包括連携契約を締結しました。2025年3月には、共同で制御性T細胞に関する研究成果を発表するなど、産学連携による実用化が着実に進んでいます。読売新聞オンライン
がん免疫療法の進歩への貢献
坂口氏は「がん免疫療法薬で効果がある人は現在30%程度だが、作用が異なるさまざまな治療法を組み合わせることで、近い将来50~60%の人を治せるようになると思う」と展望を語っています。産経新聞
哲学的思考から生まれた医学への情熱
坂口氏の研究へのアプローチは、その哲学的な思考背景と深く関連しています。滋賀県の旧びわ村(現長浜市)で育った坂口氏は、校長を務めていた父の影響で哲学に傾倒し、同時に精神科医ビクトール・フランクルの「夜と霧」を read、精神医学に興味を持ちました。
「二律背反的でおもしろい」と語るように、免疫システムの複雑性に魅了された坂口氏は、自分を守るだけでなく自分を攻撃することもある免疫の本質を探求し続けました。この哲学的な探究心が、長い「冬の時代」を支える精神的な支柱となったのです。朝日新聞
次世代研究者への教訓
坂口氏は現在も大阪大学免疫学フロンティア研究センターに研究室を構え、学位論文の審査には厳しいことで知られています。その理由について、「何かを成し遂げるには時間がかかると教えている。本当に一生をかけるものを見つけるには、考え抜くことが必要です」と語っています。
この言葉は、坂口氏自身が経験した長い研究人生の教訓を反映しています。1985年の論文発表から2000年代の国際的な認知まで、約20年間の忍耐が必要でした。しかし、その間も妻の教子さんと共に信念を貫き通したことが、最終的な成功につながったのです。
未来への展望:制御性T細胞研究の可能性
坂口夫妻の研究は、医学の未来に大きな可能性を秘めています。制御性T細胞を標的とした治療法は、以下のような分野での応用が期待されています:
精密医療の実現
患者個人の制御性T細胞の状態を分析し、最適化された治療法を提供する精密医療の実現が期待されています。これにより、治療効果の向上と副作用の軽減が可能になります。
予防医学への応用
制御性T細胞のバランスを早期に検出することで、自己免疫疾患やがんの発症を予防する新しいアプローチも研究されています。
再生医療との組み合わせ
制御性T細胞の機能を活用することで、再生医療における拒絶反応を抑制し、より安全で効果的な治療法の開発が進められています。
制御性T細胞の医療応用に関する研究発表(出典:時事通信)
日本の免疫学研究の国際的地位
坂口氏のノーベル賞受賞は、日本の免疫学研究の国際的な地位を改めて示すものです。利根川進氏、山中伸弥氏、大村智氏、大隅良典氏、本庶佑氏に続く6人目の日本人生理学・医学賞受賞者として、日本の基礎研究の厚い層を証明しています。
特に免疫学分野においては、本庶佑氏のPD-1発見に続く快挙として、日本が世界の免疫学研究をリードしていることを示しています。これらの成果は、日本の研究環境と研究者の質の高さを物語っています。
社会への影響と期待
制御性T細胞研究の進歩は、単なる学術的成果を超えて、社会全体に大きな影響を与えています。
医療費削減への貢献
より効果的で副作用の少ない治療法の開発により、長期的な医療費の削減が期待されています。特に、現在治療が困難な自己免疫疾患やがんに対する新しい治療選択肢の提供は、患者と社会双方にとって大きなメリットとなります。
患者の生活の質向上
制御性T細胞を活用した治療法により、これまで治療が困難だった疾患を持つ患者の生活の質の大幅な改善が期待されています。
医療イノベーションの促進
坂口氏の研究成果は、ベンチャー企業や製薬会社による新たな治療法開発を促進し、医療イノベーションエコシステムの活性化に貢献しています。
結論:愛と科学が生み出した医学革命
坂口志文氏と妻・教子さんの物語は、単なる科学研究の成功談を超えた、愛と信念に基づく人間ドラマです。20年以上にわたる「冬の時代」を夫婦二人三脚で乗り越え、最終的に免疫学に革命をもたらした彼らの歩みは、科学研究における忍耐力と継続性の重要性を示しています。
現在74歳と71歳になった二人が、米国での新興企業を通じて新たな治療薬開発に挑戦し続ける姿は、科学への情熱と社会への貢献意識の高さを物語っています。「一緒に同じ景色を見てきた同志」として、彼らは今後も人類の健康と福祉のために重要な貢献を続けていくことでしょう。
制御性T細胞の発見とその医療応用は、まさに愛と科学が生み出した医学革命といえます。坂口夫妻の研究は、自己免疫疾患やがんに苦しむ世界中の患者に希望の光をもたらし、未来の医療に新たな可能性を切り開いているのです。
参考文献
[1] 読売新聞オンライン, 「ノーベル賞の坂口志文さん、医師の妻・教子さんが実験サポート「一緒に同じ景色を見てきた同志」」, (2025年10月6日), https://news.yahoo.co.jp/articles/1ec5ca461f985d4d9ff2fe85de14d440053451c6
[2] 朝日新聞, 「ノーベル賞の坂口さん「考え抜くことが必要」 夫婦で巡った研究人生」, (2025年10月6日), https://www.asahi.com/articles/ASTB63JMKTB6PLBJ01CM.html
[3] 毎日新聞, 「坂口志文氏発見の制御性T細胞 がんや糖尿病治療、臨床応用に期待」, (2025年10月6日), https://mainichi.jp/articles/20251006/k00/00m/040/266000c
[4] 時事通信, 「坂口志文氏らにノーベル賞 免疫抑制「制御性T細胞」発見」, (2025年10月6日), https://www.jiji.com/jc/article?k=2025100600860&g=soc
[5] 中日新聞Web, 「「すごい穏やかでおっとり」妻・教子さんが語る坂口志文さんの素顔」, (2025年10月6日), https://www.chunichi.co.jp/article/1144465
[6] 日本経済新聞, 「ノーベル賞・坂口志文氏が発見、免疫の「警備役」 がんなど開発競争」, (2025年10月6日), https://www.nikkei.com/article/DGXZQOUC00043_V01C21A1000000/
[7] 産経新聞, 「がん治療への応用期待 坂口さん発見の制御性T細胞」, (2025年10月6日), https://www.sankei.com/article/20251006-YTUHIYJHJZN2PC4WFUIY3R5RIM/
[8] 日経ビジネス, 「ノーベル生理学・医学賞に坂口志文氏ら 日本発の研究」, (2025年10月6日), https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19/00030/100600706/
[9] J-Startup, 「レグセル株式会社」, https://www.j-startup.go.jp/startups/235-regcell.html
[10] 京都大学イノベーションキャピタル, 「レグセル株式会社への新規投資について」, (2024年9月2日), https://www.kyoto-unicap.co.jp/topics/3326/
[11] 日経バイオテク, 「Treg療法開発のレグセル、AMED支援と合わせて最大約68億円を調達」, (2025年3月24日), https://bio.nikkeibp.co.jp/atcl/news/p1/25/03/19/13099/
[12] UTEC, 「RegCell, Inc.|投資先企業」, https://www.ut-ec.co.jp/our_companies/regcell/
[13] KEPPLE, 「自己免疫疾患の克服に挑むスタートアップ5選」, (2025年8月29日), https://kepple.co.jp/articles/z1rt_l-uhgiy
[14] 京都府, 「レグセル株式会社(京都企業紹介)」, (2021年2月5日), https://www.pref.kyoto.jp/sangyo-sien/company/regcell.html
[15] 科学技術振興機構(JST), 「坂口志文博士 ノーベル生理学・医学賞受賞をお祝いして」, (2025年10月6日), https://www.jst.go.jp/topics/nobel/2025/danwa20251006.html
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